11月28日全国ロードショーの『兄を持ち運べるサイズに』。8月上旬に行われた完成試写会では柴崎コウ、オダギリジョー、満島ひかりという実力派俳優が舞台挨拶に登場、話題を集めました。
原作は2020年に刊行された翻訳家・エッセイスト、村井理子さんの『兄の終い』。村井さんがご自身のお兄さま(享年54歳)を見送った「ただならぬ5日間」のノンフィクションです。村井さんに、執筆時の、そして映画封切りを控えた現在の気持ちを伺いました。
突如としてロードムービーが始まった。ただし、兄の元妻と2人で、兄を弔うための
――本作は2019年10月30日、「夜分遅く大変申し訳ありませんが」という電話で始まります。「お兄様のご遺体が多賀城市内で発見されました」。大変に衝撃的な導入ですが、どの時点から一部始終を作品にすることを意識していたのでしょう。
連絡を受けたのが水曜。翌週火曜、遺体引き取りに向かう移動を始めたころから、これは自分にとってこれまで体験したこともないくらいに大きなできごとだ、逃してはならない、すべて記録したほうがいいとメモを始めました。
自分が覚えておくために、どこでどれだけのお金を使ったか、葬儀社はどこにしたかなど、PCでの記録と並行してFacebookに写真とともに投稿し続けました。今どこで何をしているか、「水道局で水道栓を開けてもらいました」「電力会社でもう一度電気をつけてもらいました」「今ごみ処理場で」……。
Facebookは投稿が時系列に並び、つながっているのも編集者や作家だけなので外から見えず、また初めてのことだったので近しい皆さんにアドバイスをもらいながら進んでいきたいという気持ちもありました。
なのですが、写真をどんどん載せながら進めていったのですが、つながっている皆さん、渦中ではなかなかアドバイスをしにくいんですね(笑)。固唾を飲んで見守ってくださっていました。兄の部屋のショッキングな状況も載せましたが、コメントは多くありませんでした。「悲しいね」ボタンなど、読んだよという確認が押される感じでした。
その「終い」はしめやかというより、ものすごいテンションで進んでいく
――兄との離別という重い悲しみの5日間だったはずですが、作中では悲しむ余裕もないお祭り騒ぎのような日々と感じました。現実もこうだったのでしょうか。
実際、勢いがなければ進めませんでした。興奮状態でお腹が空かないほどの勢いで進めていましたし、同行した兄の元妻、加奈子ちゃんもご飯が食べられない状況でした。ホテルで朝、寝ぼけながら朝食をとり、「さあ行くか」と次の作業に向かい、深夜になっても次から次へとタスクをこなし、息つく暇もなくすべてを片付けていく。
――なるほど、悲しむというより、完全に短期決戦のタスク戦だったのですね。代表的なタスクはどのような?
一つは兄の処理、もう一つは兄の息子を児童養護施設から元の家に戻す手続き。そして小学校の手続きなど、とにかく怒涛のようにやることがありました。
また、見たまま、感じたまま、事実だけを淡々と描いて、ちょっとだけ感情を描写するというスタンスで、あくまでもドライに書きたいと思っていました。
ウェットに書こうと思えばいくらでも書けましたが、私には兄の死を哀れな死にすることはできませんでした。さらっと死んだのだということを書いてあげたかったのです。状況だけを見れば確かに悲惨でしたが、できれば「ある男がいた、そして死んだ」という筆致にしたかったし、そのように書きました。
――この、疾走感と言いますか、悲しみに暮れる間もなくひたすら駆け抜ける感じは、現実もそうでしたし、また作品としてそう描写している部分もある?
というより、タスクがあまりにも多すぎて、テンションを上げていくしかなかった(笑)。あまりに物量が多すぎて一気にいくしかなくて、悲しみが入る余地がない。なぜかというと、基本的に遺品って腐るものが半分以上なんですよ。遺体もそうですが、時間がかけられない。
――作中にも登場しますね、冷蔵庫の中身が大問題になるということが。
はい。冷蔵庫の中のもの、作りかけのカレー……とにかく気合いをいれてバンバン捨てていくしかなくて、悲しみを感じる心のスペースがなかったというのが実際のところです。
兄に対する気持ちは刻々と変化していく。兄のことは嫌いだったし、執筆時点では完全に怒っていたが
――お兄さまとの関係性が必ずしもよくなかった、どちらかといえば嫌いだったという描写も折に触れて出てきます。
当初は一人で勝手に死んでいったということに対して怒りもあり、涙も出ませんでした。ですが不思議なことに、生前あれだけ縁を切りたかった迷惑者の兄なのに、亡くなってから今日まで彼のことを考えなかった日は一日たりともありません。悲しみは分散しています。強烈な嵐のような悲しみでも、ずっと引きずっていく重たい悲しみでもないのですが、本当に考えない日はないのです。
兄は私より5つ年上で、幼少期はべったり過ごしました。両親が共働きで喫茶店を営んでいたので、親がいない環境下で兄と2人で過ごす時間が長かったのです。ですが中学校を卒業したあたりから兄は非行に走り、高校を退学してからは生活がみるみる荒れていきました。心も距離もどんどん離れていき、成人してからは世界が離れすぎて重なるところがありませんでした。
また、母と兄の共依存があまりにも強くて、それに嫌悪感も抱いていました。私と父は仲がよかったのですが、父は兄を嫌っていました。私が19歳の時に父が亡くなると、残った家族は兄&母、私の2グループに分かれてしまいました。
そこから大きな喧嘩があったわけではありませんが、心の距離は決定的に離れましたし、私には兄のハイテンションでパワフルなふるまいが非常に重かった。突然やってきては「おーい、りこー」みたいに大きな声を出すような行動がイヤでイヤで。今だったら許せるのですが。
非常に迷惑な兄であったし、実際あの5日間は2人とも怒りと興奮に満ちていた
――親子兄弟といえども疎遠にして、縁をいっそ切ってしまうということもできなくはありません。でも、そうしなかった。
兄のことなど忘れたいと思って、実際に長らく忘れていたのですが、兄が徐々に体調を崩し、ついに多賀城に引っ越してお金の無心をするようになったころからは、逆に兄のことを考えずにはいられなくなりました。
というのも私は母に懇願されてやむを得ず兄のアパートの保証人になっていたので、心の片隅には常に「突然死んで、もし何かあったらどうしよう。またお金を無心されたらどうすればいいのか」という不安があったのです。
夫には保証人の件を話していなかったので、とりあえず100万円くらい「兄始末資金」を貯めておこうかなとまで思いつめていました。実際はとても100万円では足りませんでしたが(笑)、そう考えるほど兄の体調が悪くなっていったのです。
――死を予見せざるを得ないような疾患を抱えていらしたのですね?
兄は死の7年前に多賀城市に転居しました。最初は調子もよく、復興景気で仕事もたくさんありました。ですが4、5年経った頃に狭心症を患い、もともとの高血圧に糖尿病が悪化して白内障も患いました。とにかくアルコール依存がひどく、それが原因です。そして体調が悪化していると聞いたころから電話やメールがくるようになって。
「俺は悲しくて仕方ない」「孤独で話す相手がいない」「どうしようもないんです」といった内容が送られてくるのですが、これがまた無駄に文章が上手で、「夕方の商店街の音楽を聞くと死にたくなる」「俺たちは2人きりになってしまったなあ」など、えっと思うようなものばかりで。この人はすごく弱っているなあと思いました。
そのうち「俺は60まで生きたい」と書いてくるようになり、これはいよいよまずいなと感じました。当時兄は54歳だったでしょうか。
――そんなお兄さまから長年にわたり相当な迷惑をこうむってきたという描写もとても印象に残っています。
亡くなったのは2019年ですから、現在5年経過しています。当時は腹が立って腹が立って仕方ありませんでしたが、その怒りの波が徐々に抜けて、今は哀れみへと大きく変わりました。終いの途中はものすごく怒っていましたし、すぐに執筆に入りましたが、2週間くらいはめちゃくちゃに腹を立てながら書いていました。
これでも私は「なんだこの野郎、迷惑をかけやがって」という気持ちは最大限に隠しながら書いていたつもりでした。「よくここまでやってくれたな。結局私に最後やらせたんだ。子どもまで残しちゃってさ」という気持ち。
元妻と一緒に住んでいる間も兄はお酒を飲んでいましたが、まだセーブできる量でした。しかし、あのマンションの汚部屋に積まれていた酒ゴミは尋常ではありませんでした。トップバリュの4リットル焼酎空きペットが積み上がっているのを見て、すごく腹が立って。わずかに残っている中身をひたすら出してはどんどんゴミ袋に入れました。缶ビールだって30、40本くらいあって、それも激怒しながらひたすらやっつけました。
――お部屋のニオイが酷かったという描写も出てきます。
人間が亡くなると死のニオイがします。兄は吐血もかなりしていて、吐いた汚れが1週間くらい放置されていましたからそのニオイもあります。携帯電話が置いてありましたが、倒れた直後に電話をしようとぐわっと握った血の跡がついていました。ちょっと凄惨とも思える現場でした。
昼間はとてもよく日が差す部屋で、日の光で見てみると動線だけがきれいで、動線以外にはすべてほこりがたまっていました。ほこりの上にほこりがたまって、その上に油がたまってほこりがたまって、ゆらゆらしていました。
――いわゆる汚部屋を、かなりの部分まで自力で何とかしたというのはすごいことだと思うんです。魔窟ですよね。
兄はものすごく料理好きで、上手な人だったので、キッチンは男性にしては小物が多く、S字フックをたくさん使ってざるやいろんなものをかけて、調味料もたくさん置いて、手作りの漬け物も冷蔵庫に入れていました。子どものご飯だけは死守していた感じがありましたね。そして作りかけのカレーの入った鍋が置かれていました。
そのキッチンを見たときは、「ああ、これを片付けるのか」とがっくりきました。
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