SNSの“いいね”では埋められなかった妻の孤独。そして、すれ違いが静かに積み重なった末に訪れた「レス宣告」。
前編では、育休中の“自己研鑽”が、タカシさんと妻の距離をかえって広げていった様子をお届けしました。本編は【後編】です。
沈黙の日々と “既読がつかない合格通知”
レス宣言以降、夫婦のコミュニケーションは最低限の“育児連絡アプリ”と、冷蔵庫に貼られたホワイトボードのメモだけになりました。
「娘の体温36.6°C」「離乳食の食いつき△」など、業務連絡のようなやり取りはあっても、雑談や感情の共有はほとんどありません。リビングで顔を合わせても「暑いね」とさえ言わない日々が続きました。
そんな中、タカシさんは国家資格の試験に無事合格。学習スケジュール通りに結果が出た喜びを抑えきれず、彼は“祝・試験合格”のカラフルなGIF画像を妻に送ります。
けれど、1分、5分、1時間が過ぎても既読はつかず……。かつてなら数時間後に「おめでとう」くらいは返ってきたはずですが、その日は終日、無反応のままでした。
そのときようやく、問題の本質が“試験”でも“合格”でもなかったことに気づいたのです。勉強への努力はたしかに立派なものでしたが、妻がその過程で何を感じていたのか、想像すらしてこなかった……。
「既読がつかなかったあの日、いちばん悔しかったのは、“祝ってもらえない関係を作ってしまった自分”でした」
そう語るタカシさんの言葉に、ようやく始まった自己認識の芽生えがにじんでいました。
「育休とは何か」問い直される時間
「タカシさんにとって、育休とはなんですか?」
取材の終盤、私は彼に直接そう尋ねました。タカシさんは一瞬戸惑ったような顔を見せましたが、やがて、いつもの調子で慎重に言葉を選びはじめます。
「家族を守り、スキルアップする時間……正直に言えば、そう思っていました。資格を取れば収入が上がるし、会社でも評価される。娘の将来の学費のことも考えて……」
けれど、それはすべて“未来”の話です。子育ての“いま”という視点は、そこにあったのでしょうか?
「……“いま”、か。いや、自分の未来を最優先することが、結果的に家族を守ることだと思っていた。だから、その視点は当時、まったく持っていませんでした。育休の意味を、根本から履き違えていたと思います」
育休中、タカシさんの頭にあったのは、将来への不安をどう解消するかということ。営業職として「先手を打つ」ことに慣れていた彼にとって、それは自然な思考回路だったのでしょう。
でも、妻にとって大切だったのは「いま辛い」「いま助けてほしい」「いま一緒にいてほしい」という瞬間です。その“いま”に手を差し伸べてくれる人こそが、本当に頼れるパートナー……。育休とは、その気持ちにどれだけ応えられるかが問われる制度なのかもしれません。
「“いま”って言葉の意味を、ちゃんと考えたことがなかった」
そう言いながら、タカシさんはわずかに口角を下げました。自分なりの理想や未来設計ばかりを追いかけ、隣にいるパートナーの感情に寄り添うことを、どこかで後回しにしてしまっていた。その事実に、ようやく気づいたようでした。
タカシさんの「告白」で社内に激震が走った日 次ページ
「バズった社内報」“告白”が社内をざわつかせた
育休が明けてすぐ、タカシさんは社内報への寄稿を依頼されます。彼はこれまで続けてきた“ポジティブな演出”を捨て、あえて自分の失敗と後悔を赤裸々に綴ることを決めました。
タイトルは〈育休を仕事にしてしまった僕が失ったもの〉。冒頭には、〈合格通知よりも、未読スルーされたことの方が胸に刺さった〉という一文を添え、ワンオペ育児を妻に強いたことへの罪悪感を正直に語りました。
原稿は週明け、社内ポータルに掲載されると瞬く間に閲覧数を伸ばし、大きな反響を呼びました。
若手社員からは「自分も“育休中は何か成果を出さなきゃ”と焦っていた」「勇気をもらった」といったコメントが相次ぎ、管理職層からは「知らず知らずのうちに、部下に無邪気な期待を押しつけていた」と反省の声が続出。さらには人事部が「男性育休のあり方を見直す必要がある」として、臨時のワークショップを立ち上げるまでに発展したのです。
再構築の鍵は「聞く」ことだった
社内報が公開された翌日、タカシさんのスマートフォンに上司から直接メッセージが届きました。
「おまえの記事、刺さったよ。俺もな……部下を煽って“いい上司”だと勘違いしてたかもしれん」
そんな低く漏れたため息を聞いたのは、初めてだったそうです。その声を耳にした瞬間、タカシさんは少しだけ肩の力が抜けるのを感じたといいます。その翌週には急遽ランチミーティングが開かれ、上司はこう言いました。
「昇進は合格点だけじゃ決めない。これからは“家庭との両立”も含めて評価していく」
会社としても、「数字で測れない“家族の幸せ”も、今後は業績と同じくらい重く見る」と明言。これまでの“キャリア加点主義”の空気に、確かな変化が生まれたのです。それは、成果を競い合う関係から、“失敗を共有する仲間”への第一歩でした。
妻と久しぶりに… 次ページ
沈黙の中で差し出された手
その夜。玄関のドアを開けたタカシさんは、いつもより少しゆっくりと「ただいま」と言いました。キッチンでは妻が、娘の離乳食を温めていました。彼女は振り返らずに、「おかえり」とだけ返します。それでもタカシさんは歩みを止めず、妻の隣に立ち、鍋をかき混ぜる彼女の手にそっと触れました。
「……社内報、読んでくれた?」
「……読んだよ」
その声は小さいながらも、かすかに震えていたといいます。
「全部さらけ出したね。私のしんどさも、あなたの後悔も」
妻のその言葉に、タカシさんは深く頭を下げ、「ごめん」と一言だけ絞り出しました。言い訳は、しませんでした。ただ鍋を見つめる二人の間に、静かな沈黙だけが流れます。
やがて、娘が「だっこ」と両手を伸ばします。タカシさんがその小さな体をそっと抱き上げた瞬間、湯気の向こうで、妻がほんの少しだけ微笑んだそうです。
「レス解除」の夜。スケジュール帳にない約束
週末。娘の寝かしつけを終えたあと、書斎のドアが開け放たれ、教材が床に積まれたままになっているのを、妻が見つけました。
「片付けないの?」
「今夜は、勉強しないって決めたんだ」
リビングのソファには、二人分のマグカップと、タカシさんが買ってきた抹茶プリン。PCもスマホも手元にない空間で、二人は“なにもしない”時間を静かに共有します。
やがて妻はそっと手を伸ばし、タカシさんの指を握りました。
「今日だけじゃなくて……これからも、こういう日を作ってくれる?」
「約束する。スケジュール帳には書かないけど、毎週ね」
あの“レス宣告”の夜から、長い時間が経ちました。ようやく、二人の夜が戻ってきたのです。
現在のタカシさんのTo-Doリスト 次ページ
エピローグ “いま”を刻むチェックボックス
取材の終わり際、タカシさんは、最近書き始めたというTo-Doリストを見せてくれました。そこには〈娘と公園で砂遊び〉〈妻と昼寝〉〈資格更新のための勉強30分〉といった項目が並び、最後にひときわ大きな文字で、こう記されていました。
〈家族みんなで笑う〉
その横のチェック欄には、太くしっかりとした丸が記されています。
「合格通知よりも、この丸のほうが重いですね」
そう言って、タカシさんはMacBookをそっと閉じました。かつて部屋に響いていたキーボードの音はなく、今は娘のはしゃぐ声と、妻の甘えるような笑い声が、彼の“いま”を満たしていました。
育休の半年間、“自己研鑽”に費やした時間が残したもの。それは資格という名の肩書だけではありませんでした。
本当に得たのは、“いまここ”に目を向け、手を伸ばす勇気だったのかもしれません。
社内報で始まった小さな波紋は、職場にも家庭にも“聴く耳”を取り戻し、タカシさんの“遅れてきた後悔”を、“今ここにある幸せ”へと書き換えていったのです。
あなたのTo-Doリストには、誰と笑い合う時間が刻まれていますか?
そんな問いを、そっと投げかけてくる取材となりました。
※個人が特定されないよう設定を変えてあります
※写真はイメージです