元TBSアナウンサーのアンヌ遙香がニッチな眼差しで映画と女の生き様をああだこうだ考え、“今思うこと”を綴る連載です。ほんのりマニアックな視点と語りをどうぞお楽しみに!
【アンヌ遙香、「映画と女」を語る #15】
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夏目漱石の『こころ』、高校の教科書に載っていませんでした?
「三つ子の魂百まで」とはよく言ったもので、最近は10代の頃に好きだった小説や映画に再び惹かれている私がいます。私くらいの年齢層ですと、高校生のとき国語の教科書に夏目漱石の「こころ」が掲載されていたという人、ある程度いらっしゃるのでは?
ある大きな秘密を抱え、世をはかなむ先生と「私」とのやりとりを3部構成にした、夏目漱石の代表作である名作。
私の高校時代は、「先生」と親友Kとお嬢さんとの三角関係について丁寧に書かれた箇所に関して、授業でかなり時間をかけて読み解いた記憶があります。むしろ私の高校時代の授業の中でしっかり覚えているのは「こころ」のこと、といってもよいかも。それくらい思春期の私にとっては忘れられないものでした。
わかる方にはわかる、でかまわないのですが、下宿の奥さんの「よござんす。」に内包された意味。当時の国語の先生の解説を耳にして、目からうろこだった記憶があります。よい授業だったなあ。
アラフォーになって読み返したら意外にも
アラフォーにしてこれを読み返したきっかけは、私が指導しているスクールで朗読の資料として使用したかったから、というのもありましたが、今の自分は如何にしてこの物語をとらえるんだろうという単純な興味や懐かしさがあったから。
読み返したら…もう、響く響く…!!!!!もう辛いほどに。切ないほどに。
高校生の頃は、文豪夏目漱石の書くことに対して全く何の疑問点も持たずに受け止めていた私。その後数々の山を越え、谷を降り、人生経験を積んだことでいろんなことがわかるようになった部分もあれば、全くわからないままの部分もあり。とにかく、大発見が多くて多くて、私は周囲の人に、大人になって読み返す『こころ』を強く勧めているのです。
市川崑監督が映画化。令和にも映画化希望!
文庫で読み返す時間も気力もないわ、という方へ。あの市川崑監督が2時間の作品にまとめてくれています。誰よりも愛しているはずの妻にも言えない秘密を抱えて生きている「先生」を、渋い魅力に溢れた森雅之。夫に愛されていないのでは、と言い知れぬ悲しみを抱えた奥さんの役を新珠三千代。
先生を無邪気に慕い、人間的にも魅力ある先生が世の中から距離をとって生きているのはなぜかと率直な疑問を投げかける日置に安井昌二。そして先生の一生を変える、学生時代の親友役、小説の中でKと表現されていますが、映画では梶と言う名前が与えられているのが三橋達也。
市川崑監督と言えば、「東京オリンピック」や「犬神家の一族」などの名作を数々手がけた日本映画界の重鎮。実は夏目漱石「こころ」の映画化は、他にも舞台を現代に移して、新藤兼人監督も手掛けています。
私は個人的に市川監督の大ファンと言うこともあり、市川版を拝見しましたが、舞台を明治のままで、ぜひ令和の俳優さんたちでまた映画化してほしいわなんて妄想しています。
『こころ』は暗い!?
さて、まわりの方に「こころ」を勧めると、結構な数の方から「いやあ、暗い」「感覚が現代と違いすぎる」といった感想を頂戴することがあるのです。
私にはもう刺さりすぎて、ぐさぐさと。もう…何回でも私は観なおしたい、読み直したいくらいでしたが、もしかしたら、「とんでもない根暗」な人には響くのかも、なんて感じる今日このごろ。だって…私がそうだから。
至って明朗快活に見える私かもですが、これは文章を書いたり練ったりするのが好きで、それが天職だと思っている人にもありがちな傾向かもしれませんが、考えるのが好き=考え込みやすい=無駄に悩みやすい=自分で悩みを作り出しドツボにはまる、の負のサイクルに陥ることがしばしば。
つまり私個人、「先生」もしくは夏目漱石並みに、とにかく悩みやすい。無駄に反省しやすい、そして無駄に自分に罰を与えようとする…思い当たる方、いませんか?
自己分析してみて、自分はそういうとんでもない根暗なやつではなかろうかと言うことが、改めてありありとわかってきたのです。でもこれって、実は多くの人に当てはまる傾向なのではとも思いました。
無駄に一人反省会、してない?
1人でいるときに、無駄に、思い出しても仕方がない過去の過ちやらのコレクションの脳内引き出しをいきなり開けて、その細かいところに至るまでまじまじと手に取って眺めて、そして叫びたくなるくらいにあまりにも嫌になって、自分で自分をぶん殴りたくなるような恥ずかしさだったり、悲しさだったり、後悔だったりに押しつぶされそうになる現象。
私自身、大体40年生きていますので、それだけ思い出したくないことや恥ずかしいことが山のようにあります。山どころではない、ひとつの大陸が誕生するのではと感じるくらいにあります。
ただ、ありがたいことに人間は忘れると言う本能もあるわけで。どれだけありえない体験も、その恥ずかしさレベルと言う意味では自然と時ともに薄れていくわけですが、でも1人反省会をすることって、ただ恥ずかしかったことだけじゃないですよね。むしろ、他者を巻き込んで、もう修復不可能な過ちをしてしまったときは…もう取り返しのつかない事態になるわけで。
何年たっても、冷静になってそのことを思い出して、先方に謝りたくて謝りたくて仕方がないと思ってしまった時。私は1人家の中で頭を両手で抱えて、唸るしかありません。
▶せっかち&思い込みによって人間関係が修復不可能に…
焦って距離感を間違えた私
例えば、こんなことがありました。ある人と、せっかく良好な人間関係が築けそうだと思った際、未熟な私はとにかくせっかちで、結果を急ぎすぎ、また勝手な思い込みで、良い方向に進むはずだった人間関係をいきなりぶち壊しにしてしまった経験があります。
人間関係の構築において、居心地のよいスピード感というのは人によって異なるわけです。私は、気が合うと思ったらすぐに距離を詰めたくなるときがあります。気が合うと思ったひとには、すぐに胸の内の本音を話したくなりますし。
でもみんながみんなそうじゃない。そんな私の流儀に閉口するひとだって必ずいるわけです。ああ、恥ずかしい。
今更ながら、ああなんであんな行動をとったんだろうと頭を抱えてもあとの祭り。その人に今更連絡をして、あんな失礼をして本当に申し訳ない。ひとえに私がおかしかったのだと言ったとしても、それはむしろ、ただ自分の壮大なる言い訳を聞かせたいと言う自分自身のエゴ以外のなにものでもないわけで。
謝りたいという気持ちそのものがご都合主義なのかも。あわよくば「そんなことないですよ。大丈夫ですよ」と笑顔で許しの言葉をいただきたいというわがまま。
人生はいくらでもやり直しが効く、というのは人生の真理だし、その通りだと思います。でも、人と人、人間関係においては、一度やらかしてしまうと二度と回収、および改修ができない残酷さがあります。
やっぱり人と接する時は、明るさや感じの良さのみならず、「慎重さや親しき仲にも礼儀あり」を常に強く意識せねばならんということを、この年齢にして再認識している次第なのです。
とにかく、恥の多い人生、なのです。
夏目漱石に共感するのみならず、最近の私にずんと来たのは、太宰治の「恥の多い生涯を送ってきました」と言う名言。そうそのとおり。なんと恥の多い人生か。自分の人生は恥ばかりで、ふとした瞬間に頭を抱えて唸りたくなる衝動に駆られている今日この頃。
ここまでの文章を読んで、これは自分が書いた文章ではないかと感じたそこのあなた、つまり、一人反省会のことも、頭を抱えて一人唸るという現象にも心当たりがあるというあなた。「こころ」、響いちゃうと思うんだよな~。
もちろん、「共感」がすべてではないわけですが、自分自身から悩みを止めどなく産出し続ける漱石スタイルにどこか自分を重ねてしまうという人も結構いるはず。ぜひ観てみてください。