大川小学校をめぐる国家賠償請求訴訟 | NewsCafe

大川小学校をめぐる国家賠償請求訴訟

社会 ニュース
児童74人が津波の犠牲となった宮城県石巻市の大川小学校の避難行動や事後対応をめぐる国家賠償請求訴訟は19日、第一回口頭弁論が行なわれました。この日は、遺族の意見陳述が行なわれました。また、従来ですと、被告の宮城県や石巻市側の答弁書が提出されたことを確認するまでですが、その答弁書を読み込んでさらなる求釈明を出しました。回答期限は7月下旬。第2回の口頭弁論は8月26日。

この日は第一回とあり、多くのマスコミや遺族関係者らが傍聴券を求めて集まりました。仙台地裁では傍聴券の希望者の締め切りが午前10時30分。この段階で記者席や関係者席を除いた「53」の傍聴席を求めて、60を超える希望者がありました。抽選の結果、私も当選し、傍聴ができました。10時40分過ぎ、原告団が同地裁に入りました。

通常、民事裁判は書類のやりとりが中心です。そのため、原告の意見陳述はこの回を逃すとほとんどありません。最終弁論のときに意見陳述があるか、どうかでしょう。途中では証人尋問が焦点となります。その証人に、唯一生存した教諭の証人尋問を要請しました。これまで生存した教諭は、事実と異なる説明を遺族側にしています。当初は津波にのまれ、裏山で一晩明かした、と言っていましたが、実際には津波をかぶっておらず、震災当日の夕方あたりに裏山の反対側の自動車整備工場に避難しています。そのときに学校関係者とは名乗っていません。

もちろん、心理的なストレスによって虚偽の事実を話してしまった、ということも考えられます。一方で、津波をかぶっていないということは、何らかの理由で、津波襲来時には裏山に一人だけ逃げていたことになります。「山さ、逃げっぺ」と子どもたちが裏山に避難する言ったりしていましたが、先生たちはそうした子どもたちをなだめ、校庭に50分間待機させていました。津波を見た住民たちはすばやく避難行動をし、学校を通過するときも「早く逃げた方がいい」と言っていたともいいます。

裏山への避難は現実的だったのかどうかも争点の一つです。震災2日前の地震のとき、津波注意報が出されました。学校長は教頭と裏山に避難することを検討しなければなたないとの話し合いがあったとされていますが、具体的な検討はされませんでした。ただ、授業で裏山に登った学年もありますし、しいたけ栽培をしていた箇所もありました。また子どもたちは裏山で遊んでいた経験もあります。しかし、当時は裏山ではなく、新北上大橋のふもとにある、通称三角地帯に避難します。津波が遡上する新北上川に近づくことになったのです。

学校は河口付近から約4キロの位置です。学校があった釜谷地区の住民の犠牲は、他の地区よりも多いことが指摘されています。これは、明治三陸津波、昭和三陸津波、チリ津波といった最近の津波では、釜谷地区に到達したという記録はないとされています。そのため、津波に対する備えがなかったのではないか、とされています。第三者の検証委員会の最終報告書では、この点が指摘されています。被告らもこの点も取り上げています。

しかし原告は「仮に地域住民が津波が来ないと思って避難しなかったとしても、子どもたちを命を救うために、地域住民に求められるものと、学校の教員たちが求められるものが違う」と主張しています。それだけ学校の教員は子どもの命を守るための特別な存在として位置づけられているのだといいます。

今回の大川小学校での犠牲は、近代の学校の歴史の中で、学校管理下で子どもが犠牲になった人数としては最も多いとされています。2001年6月8日、凶器を持った男が敷地内に乱入した大阪教育大附属池田小学校事件が起きました。この事件では児童8人が死亡、児童13人、教員2人がけがをしています。この事件をきっかけに学校安全がさかんに言われるようになりました。単純に比べることはできませんが、それだけ遺族の数が多いことになります。

こうした裁判をすると「お金目当て」を指摘する人も多いことでしょう。実際、遺族はすでに周囲からそういう声を耳にしているといいます。ネット上の意見でも、今回の賠償請求額が23億円であることを指摘して、お金がほしいんだろう?との書き込みがあったりします。

しかし、当時小学校3年生の一人息子を亡くした遺族は「そう言われるのは仕方がない」としながらも、「県や市が和解を迫って来ても応じない。私が知りたいのは、息子が死ななければならなかった理由です。それを生き残った唯一の大人である教員に、なぜ当日避難行動が遅れたのかを話してほしい」と話しています。また、当時3年生の娘を亡くした遺族は「(生き残った当時小5の)息子が見ている。あの日に何があったのか?をきちんと解明しなければ、笑われてしまう」と、あくまで事実解明にこだわっています。すべての遺族に聞いたわけではありませんが、検証手段として裁判を利用しているのです。

遺族といっても一様ではありません。54遺族のうち、訴えたのは19遺族です。原告に加わらない理由としても多様です。「いくら事実がわかっても、責任を追求しても子どもが帰ってくるわけではない」と言っている遺族います。また「狭い地域なので、争いたくない」「当時学校にいた多くの教員たちも亡くなった。先生たちを責めたくない」といった声を聞かれます。さらに言えば、「行政と関連する仕事をしているために、原告に加われない」といった人までいます。どのような意見を持ち、どう実際に振る舞うのかは、その時点での思考や事情、立場によって大きく異なります。

現在の注目されるのは、生存した教員が証人尋問に応じるかどうかです。応じるとしたら、なぜこれまで虚偽の説明をしてきたのかも話さなければなりません。そうした説明をしてきたのは、頭が混乱していた、あるいは、つい言ってしまった、ということなのでしょうか。さらにいえば、そうした証言をするように言うようにされたかのでしょうか。

震災をめぐっては仙台地裁は昨年9月、石巻市の私立日和幼稚園の園児遺族に賠償を命じる判決を出しています。一方、今年二月、七十七銀行女川支店の従業員遺族の請求は棄却しました。また3月、山元町の東保育園の園児遺族の請求も棄却されました。


[ライター 渋井哲也/生きづらさを抱える若者、ネットコミュニケーション、自殺問題などを取材 有料メルマガ「悩み、もがき。それでも...」(http://magazine.livedoor.com/magazine/21)を配信中]
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