「奇跡」は偶然の要素が大きかった | NewsCafe

「奇跡」は偶然の要素が大きかった

社会 ニュース
東日本大震災から1年11ヶ月となった2月11日、私は岩手県釜石市鵜住居の鵜住居地区防災センターを訪れました。月命日はできるだけ被災地に、特にこの防災センターにいようと思うことが多くなっています。それだけ、"取材者としての私"にとってはこだわりの場所のひとつになっています。

釜石市によると、東日本大震災での死亡者・行方不明者は973人となっています。このうち鵜住居地区だけで586人となっています。それだけ被害が大きかったことを物語る数字です。

鵜住居地区には、学校にいた子どもたちは全員助かったことの象徴として取り上げられることが多かった釜石東中学校や鵜住居小学校があります。「学校にいた子どもたち」というフレーズが気になって取材をすすめると、風邪などで欠席した児童生徒が亡くなっていることが分かりました。同じ理由で自宅にいた高校生も亡くなっています。

私は「釜石の奇跡」と呼ばれたのは、学校にいて、教師の指導があったからではないかと思うようになりました。もちろん、釜石小学校の子どもたちのように下校していた中で、教師の判断なしに全員が無事だったこともあります。しかし、話を聞いていると、津波を見に行った子どももおり、「奇跡」は偶然の要素が大きかったのではないかと思っています。

鵜住居地区で犠牲が多かったのは「鵜住居地区防災センター」です。二階建てのビルですが、ここは「津波避難所」に指定されていません。しかし、このビルの市職員らが避難をするように呼びかけたことが分かっています。多くの人がそこまでの津波を予想していないことがありますが、防災訓練では、センターに避難するような訓練をしていたため、「津波避難所」と思い込んでいたと言われています。

センター近くに住んでいた姉を亡くしたという男性(74)は、津波警報の後に電話で会話をしていました。「姉は防災センターに逃げるから平気だ」と話していたといいます。この地区の津波避難所は高齢者には遠い距離にあります。そのため、二階建てに逃げれば大丈夫だと思ったのでしょう。このセンターに逃げた人数は正確には分かっていません。この男性は月命日には毎回焼香をしにくるといいますが、「だんだん、人数が減っている」との印象を持っています。

もちろん、現場に来ないからといって、「忘れている」「風化している」とは言えないでしょう。平日ともなれば忙しいでしょうし、家の仏壇に手を合わせるだけでもいいと思っている被災者も多くいることでしょう。それは個人の生活スタイル、宗教観、故人との関係性によっても左右されます。ただ、現実に訪れる人が少なくなっているのを目で確認してしまうと、悲しい気持ちを抱くそうです。

この時期は、「震災から二年目」という見方でメディアの取材が多くなります。私が取材をしている遺族や被災者にも取材が多くなっています。しかし口をそろえて、「被災地の風景は片付いているし、見た目には変わったように見える。しかし、(心情としては)二年経っても変わらないし、年月の問題ではない」と言っています。また、「津波を経験していない人が忘れるのは仕方がない」ともいいます。

来月には二年目を迎えます。「今年の3月11日が過ぎたら、被災地は忘れられる」という不安を抱く人がいました。復興商店街も徐々に観光などで訪れる人が少なくなってきました。なかなか進まない街づくり。まだ震災が終わっていないことを実感しています。


[ライター 渋井哲也/生きづらさを抱える若者、ネットコミュニケーション、自殺問題などを取材 有料メルマガ「悩み、もがき。それでも...」(http://magazine.livedoor.com/magazine/21)を配信中]
《NewsCafeコラム》
page top