
これまで受けたセクハラを数えたことはない。自分が特別多いほうだとは思わない。被害に遭ったことが一度もない女性なんて、きっといない。でも数えるのはむずかしい。そのときはセクハラと認識できていなくて、あとから「あれもそうだわ」とわかったり、あえて思い出さないようにしてやり過ごしたりというのが、セクハラだから。
【私の更年期by三浦ゆえ】#7
「ババアにセクハラなんてしないよ、自意識過剰乙」と思うでしょう? 40代50代でも、きっと100歳になっても受けるんです
一方で、ワーストの体験を訊かれたら、私は即答できる。それは40歳を過ぎてから受けたもので、記憶がまだ新しいというのが理由のひとつ。加えて、年齢を重ねてからの被害は若いころとはまた違った種類のダメージがあったというのが大きい。
SNSでは40代……いやもしかしたら30代でも、セクハラの話をすると「ババアの自意識過剰」などと言われる。私は声には出さず、いくつになったって性被害にもセクハラにも遭うんだよバーカ、と返す。なのになぜだか自分にかぎっては、「もう遭うことはないだろう」と思い込んでいた。
それはセクハラは権力勾配がある関係において起きることをしっかり認識できたからで、仕組みがわかれば対策もできるという、ちょっとした自信があった。フリーランスはとても弱い立場だけど、「まあ、そんなに舐められることはもうないでしょう」と長く生きたなりに図太くなっていたのもある。
40代での被害と書いたけど、はじまりは30代後半だった。フリーライターにとって仕事を発注してくれる媒体の人は、立場が絶対的に上。これはいまでも変わらないけれど、フリーになってまだ日が浅かった当時は、なおのことそう感じていた。
人の紹介で会ったその男は、メジャーな雑誌の編集部で企画の決定権をもつ立場にいた。私が出した企画をさっと見て、「いいね、やりましょう」と一存で決められる立場。いい人につないでもらった、これはチャンスだと思っているところに、「このあと時間ある?」と食事に誘われれば、うなずく以外の選択肢はない。
企画が動き出してからは、打ち合わせと食事が必ずセットになり、さらにその後は食事+ホテルになり、最終的には食事が省略された。
「呼ばれても断らなかったんでしょう?わかってたでしょう?」と、石を投げる人がいまだたくさんいるけれど
こうして振り返ってまとめると、悲しいくらいにお決まりのコースだと苦笑してしまう。男は「強要した」とは微塵も思っていないはずで、当時の私も「セクハラだ」とはっきり認識していたわけではなかった。ただ、一度でも断れば、完成間近まで進んでいた仕事が水の泡になるとわかっていた。
その仕事が終わってからも関係は終わらず、「次の企画を」と呼び出されはするけど、具体的な話は何も出なかった。そうしているうちに、男が地方に出向になった。要は左遷で、何か大きな失敗をしでかしたらしい。セクハラ事案ではなかったけど、男が遠方に飛ばされたことで安堵した女性は、私以外にもいると思っている。
再び連絡があったのはそれから何年も経ってからのことで、私は40代になっていた。忘れてはいなかった。2017年には日本でも#MeTooが広まり、私も遅ればせながら「あれはセクハラだった」と認識できるようになっていた。SNSでは、似たような話をいくつも見つけることができた。業界は違ってもその内容はそっくりで、呆れるしかなかった。
見覚えのないアイコンから、ダイレクトメッセージが届いた。クリックして男の名前を目にした私は、数秒フリーズした。もっと長かったかもしれない。瞬きをせず文面に目を通し、男が東京に帰ってきていること、会社を辞めたこと、自分で会社を作って媒体を起ち上げようとしていることを把握した。最後に、「仕事の相談があるから、近いうち会わないか」とあった。
誰が見ても、一瞬で消去したほうがいいと思うだろう。ブロックすべきだと自分でもわかっている。なのに、「仕事」の二文字に視線がロックオンされてしまった。私もこの数年、それなりに経験値があがったはず。いまならこの男のいいようにはされないんじゃないか。
そう思って会うことを承諾してしまったのは、ほんとに愚かなことだった。
きっと男性から見れば「餌をねだる池の鯉」だった。これは本当に、「どこでもよく見られた話」
日中、よく打ち合わせで使うカフェで会った男は、たしかに、「仕事」の話しをした。その前に、出向先の地方では殿様のように扱われていた話(要は、左遷なんて惨めな境遇ではなかったと言いたいのでしょう)と、そんな厚遇を蹴って離職し、起業する俺の話をたっぷり聞かされたけど。ただ、「仕事」の内容はそれなりに魅力的なものだった。
「仕事については検討したいけど、個人的な付き合いは一切ナシにしたい」と伝え、男はそれで承諾した……はずなのに、次の“打ち合わせ”のあとで、またしても露骨に関係を求められた。
私は男の顔をまじまじと見た。彼は好意的な態度と解釈したようだけどそうではない。ようやく腑に落ちたのだ。男は私という人間に、ひと欠片の関心もない。数年のブランクの前も後も、私を「仕事ほしさに体を差し出すライター」としか見ていない。「一切ナシにしたい」という私の精いっぱいの意思表示も、男にとって聞く価値もないものだった。
池のふちで仕事という餌を手に立てば、何匹もの鯉が寄ってくる。口をパクパクさせて餌をねだるなかから一匹び、肉体関係に持ち込む。男に見えていたのはそんな光景なのだと思う。相手にどんな能力があるか、どんな仕事をしてきたか、どんな努力を重ね、何を積み重ねてきたかにまったく関心がないどころか、その人間性すら、彼にとってはどうでもいいのだろう。たまたま私という鯉が、捕まえやすいところにいたというだけのこと。
私にとって数年間で培ったものは、武器であり鎧であると思っていたけれど、男はそんなものがあるとさえ考えない。だって、鯉だから。鯉は鎧を身に着けることも、武器を手にすることもできない。
なんと言ってカフェを出てきたかは、忘れた。何かひと言ぐらい返したかったけど、たぶんできなかった。おかしいと思われるかもしれないが、関係をもつしかなかった30代のときよりも、ずっと強い屈辱を感じた。もっと若いころに経験した数々のセクハラと比べても、図抜けて悔しかった。おかげで、涙を拭いながら駅に向かう中年女性が爆誕してしまった。
スマホが鳴った。画面を見ると、男からのメッセージだった。「機嫌直してさ、また一緒に仕事しようよ」ーー私の怒りや屈辱も伝わらなかったのか。涙がスッと引いた。鯉にそんな感情があると考えもしない男のことで泣くのは、もったいないと思えてきた。
性被害で傷つくのは身体だけではない。心は形容しがたい深さで傷つき、そして長く長く回復しない。おそらく一生
これがセクハラってものか、と合点した。私はなんだかんだいって、セクハラをよくわかっていなかった。相手を人間だと思っていない。それまで生きてきた道のりがあって、つづけてきた仕事があって、日々いろんな感情とともに生きている。ひっくるめて、尊厳とか矜持とかという言葉で表してもいい。そうしたものを持たない存在として扱われるのが、セクハラなのだ。
自分自身を踏みにじられたしんどさと、生きてきた、あるいは働いてきた年月が比例するとはかぎらないと思う。が、私の場合はそうだった。おまえの年月などなんの意味もないと否定されたように感じた。
リカバリーには時間がかかったし、いまでもたびたび思い出しては呼吸が浅くなる。そして、後遺症のようなことをやってしまう日もある。かさぶたをはがすような行為。それはまた別の機会に書くことがあるかもしれない。




