大川小津波訴訟で控訴方針 | NewsCafe

大川小津波訴訟で控訴方針

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東日本大震災で児童74人が死亡・行方不明となった宮城県石巻市の大川小学校。津波襲来時の避難をめぐる訴訟で、仙台地裁(高宮健二裁判長)は、遺族の主張を一部認めて、宮城県と石巻市に14億円の賠償を命じる判決を言い渡しました。これを受けて石巻市は控訴を表明。市議会も承認しました。また、宮城県知事も控訴を表明しました。

判決などによると、震災当時の2011年3月11日、地震発生後の約45分間、大川小の教職員たちは、校庭で待機するように指示した。この日、校長は私用で休みだったために、教頭がリーダーシップを取っていた。午後3時37分後、校庭よりもやや高いものの、新北上川近くの高台、いわゆる「三角地帯」に避難する途中で、児童や教師たちは津波に飲まれました。

判決では、事前対策である津波想定の避難マニュアルの不備や津波想定の避難訓練をしていなかったことの責任は問われませんでした。その一方、市広報車が避難を呼び掛けた午後3時半ごろまでには、教員たちは大津波襲来を予見できたと認定しています。そのため、裏山に避難することなく、堤防付近に避難したのは「不適当」と、過失を認めています。つまり、津波にのまれるまでの7分間で、裏山に避難できたはずだ、という内容なのです。

この裁判では、亡くなった児童74人のうち、23人の児童の遺族19人が訴えていたもので、その願いの中心は、県や市の責任を追求すること以上に、なぜ、裏山に避難ができなかったのか?の真実を究明することでした。これまで市教委の調査、遺族調査、第三者の検証委員会の報告書でも、具体的なことはわかっていません。裁判では、当時校内にいて、唯一生き残った教諭の証言を求めていましたが、実現しませんでした。

石巻市では、控訴するための予算案を市議会に提出しました。臨時会が日曜日の10月30日に開かれました。亀山絋市長は、生存教諭について「証人として出廷してほしい」とも述べましら。生存教諭の証言は一審で遺族側が求めていました。しかし、生存教諭はPTSDで休職中のためもあり、市側が反対して実現しなかった経緯があります。しかし、控訴審では出廷を求める可能性が出てきました。ただ、5年以上も過ぎての証言は、どこまで信ぴょう性があるのでしょうか。

検証委の報告書によると、震災4日目の3月15日、生存教諭から校長に「1名しか助けられず、大川小学校は壊滅状態。生存児童20名程度」というメールを受け取ったとされますが、校長はなぜか、そのメールを削除してしまい、復元もできなかったとしています。他の内容が書かれていたかどうかはわかりません。また、2週間を目の25日、市教委では、生存教諭に聴取していますが、「当日夜に車中で泊まった」と証言しています。しかし当日の夜は、自動車整備工場に避難していることから、事実と違っています。

また、4月9日の第一回保護者説明会でも生存教諭は証言しています。このときが遺族の前で話をした最初で最期です。たとえば、「体育館の通路のところから見ているときに何度も揺れが来て。山の方で木が倒れた」「余震が来るたびにメキメキと木が倒れる音がしました」という説明をしていますが、事実とは違う証言です。津波にずぶ濡れになっていたと生存教諭は証言しています。しかし、生存教諭が避難をした自動車整備工場の関係者は濡れていなかったと述べています。

控訴審では、やはり、生存教諭の証言が焦点になりそうですが、果たして、実現するのでしょうか。実現したとして、当時の記憶きちんと証言できるのでしょうか。証言したとして、周囲の証言と矛盾をしないことを言えるのかどうか。まったく未知数です。

石巻市議会は。控訴方針を証人しました。反対する市議は質問でも討論でも多く発言しました。一方で、賛成討論はありませんでした。しかし、賛成議員は16人、反対議員は10人でした。賛成の論理がまったくない中での議会承認は、市議会の自殺行為ではないでしょうか。賛成の論理といっても、一様ではないとは思います。たしかに、飲み込まれる前の7分間だけで、裏山に避難をする判断ができたという判決の是非は議論の余地があります。控訴賛成する側もきちんと論理で対抗すべきでした。

ただ控訴するのですから、生存教諭の証言をもとにした避難の遅れの真実だけではなく、事前準備として、津波想定の避難マニュアルをつくるように指示されてたのに、避難場所が曖昧にされていたこと、津波想定の避難訓練を一度もしてないこと、二日前の地震で津波注意報が出たときに、裏山避難を検討したことがあったことなどを含めて、津波襲来の直前の時間帯だけでなく、事前対策を含めた総合的な判断をしてほしいと思います。
[執筆者:渋井哲也]
《NewsCafeコラム》
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