松本サリン事件から20年 | NewsCafe

松本サリン事件から20年

社会 ニュース
20年前の6月27日。松本サリン事件が発生しました。長野県松本市の住宅地で、有毒ガス、サリンが散布されたのです。
死者8人、重軽傷者660人を出しました。
この事件で、被害者でもあり、第一通報者の河野義行さんが警察にもマスコミにも市民にも犯人扱いされました。
翌年3月20日の地下鉄サリン事件が発生することで、松本サリン事件もオウム真理教が行なったとの見方が強まっていきました。

私は当時、新聞記者に成り立てでした。松本市の南隣・塩尻市に住んでいました。
勤務していたのはさらに南の木曽支局(木曽町=当時は木曽福島町、現在は閉鎖)でした。
そのため、直接サリン事件は取材していませんが、様々な情報が入って来ていました。

当時、教団が取得した土地を巡って、地元住民と対立していました。現場場所の近くには長野地裁松本支部の担当裁判官が住んでいました。
このことが事件の原因とされています。初期の報道では、「農薬調合間違えた」などの東京発信の情報(公安当局が流した情報と思われる)により、
河野さん犯人説を裏付ける情報が流れました。しかし、証言が裏付けができないこと、一般市民が自らの負傷しながら有毒ガスを発生させて何の意味があるのか、
など疑問が多くありました。冤罪ではないかとの声も高まりました。
ただ、逮捕はされないものの、弁護士がつきました。それが用意周到だと警察もメディアも市民も疑いを強めました。
一方、冤罪可能性があることを感じた市民は集会を開きました。私もこの集会に参加しました。この段階で冤罪である証拠もありませんが、
河野さんが犯人である証拠もありません。それでも警察は「河野さんに年越しそばを食わせるな」と逮捕にやっきになっていたと言われています。

私が所属していたメディアは、時事通信に加盟していましたが、配信記事と松本支局発の記事により、河野さん犯人説の記事を作り上げていた。
ほとんどのメデイアが警察情報を疑うこともなく、垂れ流し状態でした。一部では冤罪説で報道をしていました。
警察情報中心の犯罪報道を疑問を持っていた私の知人も多かったことから、
私自身も、冤罪説に傾いていました。しかし、直接取材していないこと、また、新人記者でしたので、何もできないでいました。

結局、地下鉄サリン事件が発生。取材先の某役場内のテレビでそのことを知ったのですが、そのことで河野さん犯人説がなくなっていきます。
その数年後、河野さんが高校の文化祭で講演会をしたとき、インタビューをさせてもらう機会を得ました。
すでに社としては謝罪していましたが、私自身もおわびをしました。

河野さんはメディアの構造的な問題を知り尽くしていましたし、さらにオウム真理教と裁判で確定したわけではないことから、
メディアやオウム真理教憎しでもなかったのです。疑われたからこそ、警察情報とそれに偏るメディアの情報では確定できないことを体感したのです。
だからこそ、裁判で確定するまではわからないと繰り返していました。

その後、松本美須々高校の放送部によって、県内のテレビ局が河野さんをなぜ犯人視する報道になったのかの検証番組「テレビは何を伝えたか」(1997年)が作られることになります。
この番組をもとに、舞台や映画(「日本の黒い夏ー冤罪」、2000年)もできました。

そのときの当時中学2年で、その後、同高校の放送部員として番組を作った男性は現在、テレビ信州で記者をしています。
29日のNNNドキュメント「足跡 松本サリン事件20年」で事件関係者のその後を追っていました。
河野さん以外の被害者についても丁寧に追っていました。20年間、結局、私はこの事件をきちんと振り返ることがなかったことを改めて気付かされました。

[ライター 渋井哲也/生きづらさを抱える若者、ネットコミュニケーション、自殺問題などを取材 有料メルマガ「悩み、もがき。それでも...」(http://magazine.livedoor.com/magazine/21)を配信中]
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