東日本大震災から2年… | NewsCafe

東日本大震災から2年…

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東日本大震災からもうすぐ2年が経とうとしている。私は被災地に取材を続けているが、一年目を過ぎたあたりから、マスコミの取材が減って来ていた。宗教家たちの追悼法要も多くなっている。そんな中で2月は再び、多くの取材陣を見かけた。2年目を意識した報道をするためだろう。そうした中で、被災者たちの気持ちは複雑だ。

「二年目を迎えることを意識した取材が多くなっています。たしかに、それも大事ですが、私たちにとっては、たまたま二年目がやってきただけです」

そんな話を多く聞く。
私も「二年目」を意識した仕事をする機会が多くなっている。雑誌などで執筆する際は、それが欠かせないこともあり、被災者たちに「もうすぐ二年ですけど...」といった質問をしてしまう。反省しなければならないとは思うが、より多くの読者に届けたいとなると、震災二年目を意識して読む読者たちに対するわかりやすい言葉が必要になってしまうのではないかと思うのが、メディアの宿命でもある。

私は、東日本大震災の取材を始めるとき、最低でも1年半、できればそれ以上、取材を続けようと思っていた。一年半というのは、1995年の阪神大震災で被災した小学生の取材を続けた期間だったからだ。当時、長野県の地方紙の記者をしていた私にとっては、それ期間以上に長野県の地方紙で、阪神大震災の記事を執筆する理由を見つけられず、また、その後、新聞社を辞めてしまったこともあり、紙面化ができなかった。

こんな反省が私にはあった。そのため、雑誌などで企画が通らなくても取材を続けている。そのため、目線がマスコミよりも被災者に近くなっていることもあり、「記念日報道」には違和感を抱くことも多い。二年目を意識した取材もその一つだ。しかし、どんなタイミングで企画が通りやすくなるのかを考えれば、やむを得ない。

二月末。私は、宮城県石巻市の大川小学校の跡地にいた。児童74人、教職員10人が死亡、または行方不明だ。宗教者による追悼法要に参加していた女性は、小学校の関係者ではないが、学校があった地域に妹が住んでいた。妹の子どもと、幼稚園に通っていた孫が自宅とともに流されたという。女性はこう言う。

「孫はその日、風邪で幼稚園を休んでいたので、自宅にいた。釜谷(小学校がある地区の名前)にかつて津波がきたという話は聞いたことがない。そのため、大津波警報がなっても、まさか釜谷に津波がくるとは思っていなかった。妹たちは全員、早い時期に発見されました。ただ、地域の中には、大川小の4人を含めて、まだ行方不明の人がいますから...」

そして、私はこう質問した。「震災から二年が経ちますが...」

「早かったです。あっという間でした」

そう答えてくれた被災者の方は気を遣ってくれたのだろうと思う。二年目を強く意識しているわけではないからだ。私は今後も、東日本大震災の取材を続けるだろうと思うが、「記念日報道」の違和感を抱きながらも、そうすることで読んでくれる人が増えるだろうという期待を持ちながら、取材し、伝えることをしていくのだろう。

[ライター 渋井哲也/生きづらさを抱える若者、ネットコミュニケーション、自殺問題などを取材 有料メルマガ「悩み、もがき。それでも...」(http://magazine.livedoor.com/magazine/21)を配信中]
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