警戒区域から避難する子ども達 | NewsCafe

警戒区域から避難する子ども達

社会 ニュース
東京電力・福島第一原発周辺の、10市町村で公立の小中学校に通う子どもたちが半減していると、毎日新聞(9月18日付)が伝えた。避難先で生活が安定し、児童生徒が戻ってこない、としている。私も、昨年の原発事故以後、原発周辺の小中学校、高校などを取材してきた。ほとんどの学校で、児童生徒が避難をし、転校などをしていた。転校先での生活も落ち着き、適応してきていた。そのため、元の学校が再開したからといって、戻ることにはさらなる転校を強いられることになる。多くの子どもたちは故郷やかつてのクラスメートのことを思いながらも、今の生活に慣れてきているのが現状だ。

私がよく通っていたのは富岡町の小中学校だ。福島第二原発の立地地域だ。事故のあった福島第一原発からは10キロほどのところに、小学校2校、中学校2校がある。昨年の夏に、三春町の工場跡地で9月1日から再開した。しかし、戻って来たのは震災前の5%だけ。児童生徒数も少ないために、部活動の再開もできない。そのため、部活動をしたい生徒は避難先の学校に通っている。そのため、たとえば、三春町の仮設住宅に住みながらも、三春町の学校に通う子どもと、富岡町の学校に通う子どもとに分かれている。

富岡町としては、町の復興を考えると、どうしても子ども達に戻って来てほしいとの願いがある。そのため、町教委では「再会のつどい」を昨年12月と今年の8月に行なって、友達との再会を通じて、故郷を思う機会を作って来ている。なかには、避難先の学校での人間関係が悪くはなかったものの、故郷を思い出して、学校に通えなくなった子どももいる。そうした子どもたちは、学校再開後に、戻って来ている。一方で、「もう帰れないのは分かっている」と現実的に考えている子どもも多い。またすでに避難先の学校でなじんでいる子どもたちも多い。

子どもたちにとって「町」とは、「ふるさと」とはいったい何なのかを考えさせられているこの一年半。町側の「復興の要」といった思いとは別のところで、子どもたちなりに悩んでいる。原発が立地していないものの、福島第一原発から10数キロ離れている浪江町でも、子ども達は学校に5%しか戻って来ていない。富岡町と同じく、避難先でなじめない子どもたちが中心だ。

いわき市に避難しているある母親は「原発からもっと遠いところで避難生活をしたかった」というが、「子どもが浪江の学校に通いたい、とせがむんです。事故のときに幼稚園を卒業した時期で、新しいランドセルを買ったばかりだったんです。そのランドセルを背負って、浪江小学校に通うことが子どもの楽しみでした」と話す。小学生は警戒区域に入れないために、学校を見ることもできない。しかし、子どもなりに、近くにいれば、いつかは通えると思っているのかもしれない。

関東に避難してきている富岡町の子どもは当初、それなりに原発事故を理解していたのか、諦めも早かった。仲のよい友達と離れ離れになる寂しさはあったものの、定期的に会うことで解消できていた。避難先の学校でも仲良しができていた。しかし、最近になって、富岡のことを思い出したり、わがままになってきているという。落ち着いて来たからこそ、これまで我慢してきた心の葛藤が今になって出て来ているのかもしれない。

子どもからすれば、親の仕事の都合など、大人の判断が優先されてしまう。そのために、我慢を強いられる。転勤を想定した生き方ではない親も多い。そのため純粋な転勤とは違って、親もストレスがたまりやすい環境にある。そんな中で、子どもたちが見せる世界は、大人と違ったものになっているはずだ。なかには、子どもの気持ちを優先して、富岡町の中学校に通えるように、三春町で住宅を探した親もいた。しかし、こうした動きができたのは、それに見合った条件が揃わないといけない。特に、親の仕事が見つかるかが大きい。

子どもたちの話を直接聞くと、明るい表情で「もう慣れたよ」という声を多く聞く。しかし、メールでやりとりをしていると、そこには現実との折り合いをどうつけていくのかの悩みが見え隠れしている。避難した高齢者の死亡率は、通常の死亡率よりも高いという話がある。高齢者のストレスは「死」によって現れている。一方、避難先で暮らす子どもたちのストレスは、どのような形で現れるのだろうか。表情が明るくても、注意深く見守る必要がある。

※写真は三春町の工場跡に設置された富岡町の小中学校

[ライター 渋井哲也/生きづらさを抱える若者、ネットコミュニケーション、自殺問題などを取材 有料メルマガ「悩み、もがき。それでも...」(http://magazine.livedoor.com/magazine/21)を配信中]
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