星野1000勝、陰の男 | NewsCafe

星野1000勝、陰の男

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11日、楽天がオリックスに3連勝。この勝利で星野監督は史上12人目の監督通算1000勝目となった。
初勝利は87年4月の巨人戦。1000勝以上の監督で投手経験は鶴岡(0勝)、水原(8勝)、川上(11勝)、別当(0)勝に次いで5人目にだが、過去4人はその後野手に転向。現役時代に投手一筋では初の快挙となった。

「島ちゃん、覚えてる?ワシらが知り合ったのは1970年、昭和45年だった。あれから37年。死んだ女房より付き合いは長かった。あの頃は楽しかったね。そして、ワシが監督になった時に、一番に『島ちゃん、支えて』と、そう言ったことも、昨日のことのように覚えています。最初に私を優勝に導いてくれたのも島ちゃんです。いつも私のそばにいてくれた島ちゃん。裏方にも気配りし、周りに本当に気配りし、私がヤキモチを焼くほど選手に好かれ、今思えば、こういう男は二度と出てこない。名前も育夫。育てる、男を育てる、そういう男でした」

これは、2007年12月に63歳で逝去した島野育夫さんの葬儀で、片腕として支えてもらった星野監督野の弔辞だ。星野仙一が監督として指揮した中日、阪神の13年間、懐刀として仕えた。星野の影に島野ありと言われた名コーチだ。2人で数えた白星は919勝。1000勝は島野名参謀抜きには考えられない。

この名参謀を星野の懐刀に育てたのは野村克也元監督だ。島野は62年作新学院の春夏連覇のメンバー。中日に入団し、68年に南海(現ダイエー)にトレードされた。

「まぁ、これだけ野球を知らない選手はいなかった。主にセンターを守っていて考えられないようなエラーをする。そこで付いたあだ名が"チョンボの島ちゃん"。そこから野球について考えるようになったんだろうね。僕がプレーイングマネジャーになった時はバッテリーの配球についても随分教えた。本人は『そんなこと、全然考えてもいませんでした』と目を丸くしていた。引退後は私と会うたびに『現在、自分がコーチをやれているのも野村さんのおかげです』と言ってくれました」

南海時代8年間一緒にプレーした野村元監督は当時の島野についてこう語る。野球観を教えられ努力した。野球帽の小さな通気孔の穴から相手投手を観察し、投手のクセを掴んだのは有名。そんなことから相手の癖を盗む特技を生かし、球界屈指の名参謀と言われるまでになった。しかも人情家で熱血漢。星野監督と巡り会い男にしたのだ。

阪神監督就任が決まった時に、中日コーチとして発表されていた島野を無理筋で阪神に連れて行った。そしてこのコンビは就任2年目に万年最下位の阪神を優勝させた。
投手出身監督はどうしても、現役時代からの俺がオレガの傾向が強く、視野が狭く監督として大成しない。その投手出身の監督を島野コーチは1000勝に導いた。
一方で、名参謀に育て、星野監督就任の前に当時弱小チームの阪神、楽天で種まきを行い、チームの基礎を築いた野村元監督の功績も忘れてはいけない。さらに言えば、今年の楽天は佐藤義則コーチの指導が実って、投手陣が充実し連勝が続いている。この佐藤コーチも野村監督時代に日ハムからスカウトしたものだ。

懐刀を育成し、阪神・楽天の基礎を作り、名投手コーチを招聘した野村元監督の存在なしに、星野監督の1000勝はなかっただろう。星野には野村の陰が付きまとう。

[ビハインド・ザ・ゲーム/スポーツライター・鳴門怜央]
《NewsCafeコラム》
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