最近、SNSのパトロールからメールが届きました。
私が管理するコミュニティ内での発言が「暴力的。および他ご利用者様に不快感を与えかねない内容の掲載」「自殺行為に繋がると捉えられる表現、および死を感じさせる表現の掲載」を理由に改善を求める、というものです。
私が管理するコミュニティは、自殺願望や消滅願望を書き記すことが目的。私自身、こうした掲示板やコミュニティの運営を10年以上行っています。
そのためこうした書き込みによって読んでくれる人がいると感じたり、また自分の考えを整理できたり、あるいはつぶやくことでのストレス解消など、様々な利点があることを経験的に知っています。しかし、コミュニティの目的が、「自殺行為に繋がると捉えられる表現、および死を感じさせる表現の掲載」にならざるを得ません。そのため、改善するといっても、限界があります。そのため、コミュニティが強制削除されてしまいました。
もちろん、そんな書き込みを不快に思ったり、むやみに発言を見られたくない人もいます。
コミュニティの参加者からも、「会員以外は非公開にしてほしい」との要望もあったことから、このSNS内では会員として承認しないと、トピックを見られないように設定していました。
こうしたコミュニティの強制削除は、他のSNSでも見られることであり、珍しいことではありません。
しかし、画一的な基準での運用は、行き場のない気持ちを表現する場所をかえってアンダーグラウンドの世界に向かわせてしまうのではないかと心配しています。
なぜ、こうした掲示板やコミュニティを私が運営するようになったのか、といえば、それは私がインターネットを始めたころの、コミュニケーションのあり方に由来します。
私がインターネットを使用するようになったのは1995年。当時、私は長野県塩尻市に住んでいました。その塩尻市が、市民向けに無料でインターネットを開放するというサービスを始めたのです。しかし、当時は、インターネット上に、無数の情報があるといった状態ではありません。私が探したいと思った情報はなかったのです。そのため、自分でホームページを作るしかないと思ったのです。
そのとき、私が書いたものは「援助交際」のコラムでした。当時、援助交際をする女子高生や女子大生、OL、主婦を取材していたことや、テレビ番組などで話題になっており、学校の先生や親、援助交際をする女子高生からメールが着ました。このとき「匿名のコミュニケーションでは、素直な声が聞ける」と思ったのです。教育問題や子育ての不安についてもテーマ設定して意見を募ったともありました。
その後、私は新聞記者を辞めて、フリーライターになり、取材の過程で、「生きづらさ」という言葉を知ります。そしてその言葉をキーワードに電子掲示板を作りました。
今では、ほぼ説明が不要でしたが、1998年当時は、言葉による説明が必要な時代でした。そんな中で、「生きづらさ」というキーワードに反応した人たちが、掲示板でのコミュニケーションを始めたのです。また、メールで、相談や愚痴、体験談などを寄せてくれるようになったのです。
書き込みするユーザーは、現実の生活の中で相談できる相手がいない人がほとんど。自分が相談を聞く側であり、自分の話は言えなくなってしまったという人も…。また家族や学校、友達の間では、自分の中のネガティヴな面を見せることができない、というのです。"良い子"をしていないといけないからです。
子どもたちは、家族、学校、地域社会のいずれかに所属します。大人の場合は、学校ではなく、会社(あるいはバイト先、派遣先)に所属していることでしょう。これらの3つの空間では、自分のキャラクターを常に見せながら、ある役割の中で日常を送ることになります。
うまくキャラクターを変えたり、役割を放棄したり、手を抜いたりできる人もいます。しかし、キャラクターや役割を放棄するのに、家庭や学校(会社)、地域社会以外の場を選ぶ人が多いのではないかと私は思っています。その場のひとつがインターネットなのです。
ネットは顔が見えないので、人間的なコミュニケーションができないのでは?との指摘は当然あります。しかし、顔が見えないからこそ、自分の思いを吐き出せる人がいるのも事実。そして、そうした思いを真剣に受け止め、相談にのったり、情報を提供する側にも匿名だからこそできる、という人もいるのです。
たとえば、かつて自殺願望があったり自傷行為や摂食障害の経験があったとします。その場合、現実の社会でそれを告白するのは、勇気がありますし、信頼関係がないとできません。しかし、話を聞いてほしい、という感情はあったります。そんなときにまるで「王子様の耳はロバの耳」と叫んだ昔話に出てくる床屋のように、インターネットに書き込むのです。
言葉にすることで、自傷行為をしている自分、摂食障害になっている自分の気持ちを整理することができ、次第に自傷行為をしなくてもいい、摂食障害をしなくてもいい自分を発見…どのように自分を物語るかで、本当は自分が何をしたかったのかを見つめることができます。
ただ、条件があります。その人自身にとって、信頼出来る人(重要な他者)との出会いです。出会うことで、より自分を整理できていきます。整理している内容を重要な他者に見られていることを意識し、ときには何かを指摘されることが必要なのです。
しかし、重要な他者が見つからないときがあります。そんな時は、様々なネット・コミュニティを渡り歩きます。書き込みが多くなり、ネットにアクセスする時間が多くなります。そして、他人から見れば、「傷の舐め合い」と思われることもするようになります。しかし、その人自身の問題を解決するためには、必要なプロセスなのかもしれません。
[ライター 渋井哲也/生きづらさを抱える若者、ネットコミュニケーション、自殺問題などを取材 有料メルマガ「悩み、もがき。それでも...」(http://foomii.com/mobile/00022)を配信中]
《NewsCafeコラム》
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