私の体験的「マスコミ論」 | NewsCafe

私の体験的「マスコミ論」

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最近は、原発報道や自殺報道、芸能人報道などで、「マスコミの報道」のあり方について話題になることがあります。8月7日には、フジテレビの周辺でデモがありました。このデモは、高岡蒼甫さんのフジテレビや韓流批判をきっかけに、2ちゃんねるなどで呼びかけられていたものです。

「マスコミ論」が話題になる時代はたびたびあります。しかし、基本的には「業界内の裏話」のイメージでしたが、最近では、ソーシャルメディアの発達のためか、「裏話」だけで終わることなく、「マスコミのあり方」まで多くの人が考えるようになりました。原発事故を巡っての報道のあり方についても話題になっています。

私が「マスコミ論」なるものに関心を持ったのは、大学4年生の頃でした。就職活動を終え、新聞社に入社することが決まった後です。私自身、就職活動では、「コミュニケーションの結果、人に影響を与える仕事」を選択したいと考えて、マスメディア、教師、生協職員の3つの業界で就職活動をしたのです。

最初に脱落したのは、の生協職員です。会社説明会に行ったのですが、世の中をよくしたい、という学生がたくさん来ていました。当時は、環境問題がクローズアップされていたことの関係があるのでしょう。もちろん、その会社がやっている内容には賛成。しかし、同じような人ばかり集まる職場に違和感を抱いたのです。もっと多様な価値観を望んでいたのです。そのため、その後、生協の説明会には行きませんでした。

次いでの教師を選択肢から外しました。高校の教育実習に行ったときでした。職員室にいた私は、いろいろなことで驚きました。まず、地域から匿名のファックスが届いたのです。生徒が無許可でアルバイトをしている、との密告でした。また、地域から抗議の電話がかかってきました。校内で掲げられている日の丸のひもが外れていたのです。これらを見ていると、学校は地域に監視/管理されていると感じました。これでは、「自由」な教育はできません。

消去法で選んだのはのマスメディアでした。活字メディアを中心に就職活動をしました。映像の制作会社も受けたのですが、新聞社の最終面接と、制作会社の2次面接が重なりました。私は新聞社を選びました。ただ、合格したのはよいですが、私は新聞記者という仕事が、具体的にどんな仕事であり、どんな課題を抱えているのかを知らなかった為、、合格した後に「犯罪報道の犯罪」(浅野健一著、講談社文庫)、「新聞記者を取材した」(斉藤茂男著、岩波書店)、「報道被害 11人の告発」( 山際永三・池田理代子・桐生裕子・他 著、創出版)といった新聞社の内情に関する書籍を買いました。

事件が起きると、ほとんどの場合、逮捕報道だけで終わります。その後、起訴されたかどうか、有罪かどうかまでは報道されません。その背景には、逮捕=犯人、といったイメージがあるからではないか、と思いました。報道被害に関する本も読みました。数々の具体的証言を読んだ後、私は新聞社に入り、サツ回り(警察担当記者)をしました。警察がメディア「広報」のように扱っているのかが分かりました。しかし、中には、「刑事」になったつもりになっている記者がいることもわかりました。新聞社と警察との"伝統的な"付き合いの中で、関係を逸脱する難しさがあるのです。いくら個人の記者が疑問を抱いても、それを貫くのは至難の業。

また行政を取材するようになって感じたことは、行政をチェックするというよりは、紙面を埋めるために、行政のしていることの広報が多くなるということ。疑問に思い、常にチェックしていくというのは、少なくとも、支局の一記者では難しい。受け取り側(読者)としては、行政権力のチェックも期待しているところですが、現場の記者には、その時間はないと言っても過言ではありません。

そんな中でも、疑問を持ちながら取材活動をしているのですが、とても苦労して時間を作っています。私も新人記者のころは、サツ回りをしながら、連載の取材をしていることがありましたが、それができたのは、紙面を埋める責任がほとんどなかったからです。社歴を重ねれば、紙面を埋めることが優先になります。そのため、疑問を感じていられないというのが正直なところです。

そうは言っても、「ここぞ!」というときはやってきますので、そのときは支局長も力を入れて、記者に取材させます。支局あげての「連載企画」の時も、紙面を埋める責任を薄くすることにしていました。ただ、現場は余裕がないことは変わりありません。よく先輩記者が言っていたのは、「自分の記事だ、と思えるものは、年に一回書けるかどうかだ」。

私は93年4月に、長野県の地方紙に入社しました。そして94年6月、松本サリン事件が発生。猛毒のサリンが散布されたことで、死者8人、重軽傷者660人が出ました。この事件で、散布された場所の近くに住んでいた男性が、逮捕されなかったものの、犯人扱いされたのです。95年3月に、地下鉄サリン事件が起きますが、それまではその男性がずっと犯人扱いでした。この時、メディアは反省をし、謝罪をしましたが、報道の構造は今でも同じです。直接、この報道に携わることはありませんでしたが、えん罪報道を目の当たりにしたのはショックでした。のちに、この男性へのインタビューしましたが、松本サリン事件は私が新聞社を辞める理由の一つにもなっています。

こうした現場の状況を前提にしたとき、マスメディアへの期待値は下がりました。私がいま、マスメディアに期待しているのは、「いつ、どこで、誰が、どんなふうに、なぜ、何をした」という5W1Hの部分と、読み物としての連載記事です。社全体がどっちの方向に向いているのか、という部分には関心がありません(もちろん、仕事上では関心がありますが)。

現在は、マスメディアそのものへの関心が高まり、読者にはマスメディアへの批判も広く受け入れられるようになってきています。しかし、マスメディアの批判は、なかには検証不可能な話や極端な話も多くあります。世の中の閉塞感は、まるでマスメディアが支えている、あるいは意図的に作り出している、といった印象を与えているものまであります。

マスメディアからの情報をどのように読み解き、思考し、そのように表現したり、行動するのかといった過程を「リテラシー」とするならば、それに対する、万人に受ける「正解」はありません。情報は、その人が置かれている状況や文化背景などによって、どう解釈するかが変わります。

正しいと思われる情報の読み取り方としては、ニュースソースがはっきりしていること、もし、匿名だったり、「関係者」という表現だった場合には、その理由が明示しているか、匿名の理由が読んでいるうちにわかることが必要です。ニュースソースがはっきりしていたとしても、その内容が検証可能かどうかも必要な条件ではあります。

いずれにしても、マスメディアは「正しい情報を与えてくる」と考えるのも間違いですし、同様に、マスメディア批判も「すべてが正しい」わけではありません。誰(どのメディア)が言ったから、ではなく、何を言ったのかが重要なのです。


[ライター 渋井哲也/生きづらさを抱える若者、ネットコミュニケーション、自殺問題などを取材 有料メルマガ「悩み、もがき。それでも...」(http://foomii.com/mobile/00022)を配信中]
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